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マンガ・アニメの“神様”——手塚治虫はどのようにして生まれたのか


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マンガ・アニメの“神様”——手塚治虫はどのようにして生まれたのか


マンガ・アニメの“神様”——手塚治虫はどのようにして生まれたのか

"『フクちゃん』"

アニメビジネスの今:

【表:手塚治虫の少年時代の世相・風俗一覧、拡大画像】
 50年前にテレビアニメをスタートさせ、日本のアニメ産業を興隆させた手塚治虫。「マンガの神様」「アニメの神様」とも称される手塚は、コンテンツビジネスを語る上で欠かせない存在である。

 これほどまでに稀有な人材は、どのようにして生まれたのだろうか。今回は手塚が習作に至るまでに大きな影響を受けたと思われる環境を、「時代・社会」「文化」「地域」「家庭」の4つに分けて探ってみたい。今後の人材育成を考えたり、中国など他国で同様の人材が生まれる可能性を検討したりする上で、参考になるのではないだろうか。

●手塚の背景にあった時代・社会

 1928年生まれの手塚治虫が少年時代を送ったのはいわゆる“戦前”だが、それに対する一般的なイメージは「暗い」というものだろう。ところが、どうも我々が暗くて貧しかったと思っている戦前のイメージは、太平洋戦争に向けて本格的な軍事態勢に入った1937年以降から敗戦までのことであるようだ。実際、経済的にも1935年前後は戦後の10年間よりは豊かであった。

 手塚を育んだ昭和初期はどのような時代であったのか。次表は手塚が物心ついたと思われる1931年前後からの世相・風俗だが、「アホかいな」と突っ込みを入れたくなるような事件もあり、庶民の目線で見ると結構明るい時代だった。

 「戦前には文化や娯楽などなかった」と思っている人も多いのではないだろうか。しかし、このように意外と豊かであった。手塚が生前、トキワ荘を中心とする弟子たちに、ことあるごとに「良い映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の本を読め、一流の芝居を見ろ」と勧めていたが、物心付いたころから豊かな文化環境に育ったからこそ言える言葉だったのだろう。

●手塚を囲む文化環境

 戦前の漫画文化だが、前述したように1931年に『のらくろ』が『少年倶楽部』に連載されて大ヒット、空前のマンガブームが巻き起こっていた。「1920年代から1930年代にかけてのざっと15年間は、日本の子供まんがの成長期から最盛期」(『誕生!手塚治虫』より)で、手塚いわく「見ようと思えば本当に身の回りはマンガだらけ」(『漫画の奥義』より)という状況である。

 さらに、「意外なように思われるかもしれないが、昭和戦前期の子供漫画の質の高さは、日本漫画史の中でも特筆すべきものがあり、再評価に値する」(『漫画の歴史』より)ほどクオリティも高く、子どもにとって質量ともに恵まれた漫画読書環境にあった。

大人向け漫画

 戦前の大人向けの漫画といえば、現代につながるコマ割り漫画の祖とされる北澤楽天や、ストーリーマンガの祖とされる岡本一平の系譜に連なる風刺の効いた大人向けモダニズム漫画を指すことが多い。これらの漫画は明治後期に北澤楽天が創刊した雑誌『東京パック』を舞台に、社会風刺の表現を完成させていった。両巨匠は漫画のルーツとも言えるが、当時の漫画家としては珍しく全集が刊行されており、手塚は父が購入したそれらの全集を幼少のころから読んでた。

 両巨匠が先鞭を付けた大人向けマンガは、それまでの反体制的漫画とは一線を画すプロ意識を持った近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄が集う“新漫画家集団”に引き継がれる。漫画は余技、もしくは単なる生活手段だった時代に、明確な職業意識を持った新漫画家集団が誕生することで、手塚がマンガ家となる道がひらかれたのである。

新聞漫画

 20世紀初頭、米国では新聞の拡販競争の手段としてコミック・ストリップ(新聞漫画)が活用され、大人から子どもまで絶大な人気を博するに至った。いち早くその状況を知った北澤楽天は1921年、時事新報に日曜版漫画付録『時事漫画』をつけることに成功、その後、日本でも新聞漫画が一般的になっていく。

 中でもエポックメイキングだったのは、1936年から朝日新聞に掲載された横山隆一の『フクちゃん』だろう。実写映画化、アニメ化された上、早稲田大学のマスコットになったことでも分かるように、『のらくろ』に次いで登場した国民的なキャラクターとなった。もちろん手塚も大ファンで、小学校への通学電車のくもった窓ガラス一面にフクちゃんそっくりの似顔絵を描き級友を驚かせたという。

 当時の子どもたちの間で人気が高かったのは田川水泡の漫画『小型の大将』が連載されていた『大毎小学生新聞』(現在の「毎日小学生新聞」)だが、読み物も充実しており、手塚が多大な影響を受けた海野十三の小説『火星兵団』も連載されていた。このほかにも『読売サンデー漫画』(後に『よみうり少年新聞』)には宍戸左行の『スピード太郎』が連載され、その映画的手法によるスピード感あふれるコマ割は手塚に大きな影響を与えたとされている。

雑誌掲載漫画

 戦前の子どもたちに大きな文化的影響を与えたのは『幼年倶楽部』『少年倶楽部』『少女クラブ』など講談社の雑誌である。3誌の合計販売数は200万部にも達し、それら以外の子ども雑誌はなきに等しい感があった。これらの雑誌のメインは吉川英治、山中峰太郎、佐藤紅禄といった作家による啓蒙、冒険小説だったが、もちろん子どもが大好きなマンガも載っていた。

 手塚家では『幼年倶楽部』から定期購読していたようだが、治虫少年が夢中になったのは小学校から読み始めた『少年倶楽部』だった。島田啓三の『冒険ダン吉』や、坂本牙城の『タンクタンクロー』などの人気連載漫画がある中、最もとりことなったのはやはり田川水泡の『のらくろ』であった。

単行本漫画

 講談社は雑誌だけでなく、単行本漫画においてもリーダーだった。『少年倶楽部』に連載された『のらくろ上等兵』は1932年、講談社から単行本として上梓され、13万4000部という漫画出版始まって以来の大ヒットとなった。価格は1冊1円、現在なら2000円ほどになる箱入りハードカバー上製本『のらくろ』シリーズや同じ講談社の『冒険ダン吉』なども、手塚少年は親から買い与えられていた。

 講談社の対抗軸として健闘したのが中村書店だ。「昭和戦前期の子供漫画の名作、ヒット作最も多く送り出したのは、講談社と中村書店のふたつの出版社である」(『漫画の歴史』より)とあるように、中村書店が発刊していた「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」には大城のぼるの『チン太二等兵』『火星探検』など多くの名作があった。手塚はこのシリーズもほとんど買い与えられており、当時の子どもの中でも最も恵まれた漫画読書環境にあったのは間違いない。

海外漫画

 昭和初期にはすでに、米国で人気だったウィンザー・マッケイの『夢の国のニモ』が日本の新聞に転載されていた。その種の海外漫画の中でも、手塚が読んでいた『アサヒグラフ』連載の『ジグスとマギー 親爺教育』(ジョージ・マクナス作)は1930年に松竹歌劇団で舞台化されたほどの人気だった。手塚はさらに革新的スタイルの雑誌『新青年』に掲載されていたミルト・グロスの『突喚居士』なども読んでいたというから、非常にませたマンガ少年であったことは間違いない。

 このように戦前の子どもたちは豊かな漫画環境に置かれており、手塚の「見ようと思えば本当に身の回りはマンガだらけ」という言葉もうなずけるだろう。経済的に恵まれた環境にあった手塚は「ぼくのマンガには、昭和の初めから一種のマンガ史の影響が全部あるんですよ。手塚マンガは昭和のマンガ史のカルチャライズしたものといってもいいと思いますね」(『漫画の奥義』より)と語っているように、昭和初期の漫画文化を余すことなく取り込んでいるのである。

●漫画以外からも大きな影響を受ける

 戦前の子どもにとって、漫画と並んでポピュラーなメディアであったのが紙芝居だ。その魅力は何といってもその経済性にあり、自分の小遣いで見られるほとんど唯一のメディアであった。

 また、手塚は漫画だけではなく、活字からも大きな影響を受けている。古典文学を始めとしたありとあらゆるジャンルの本を片っ端から読んでいた様子がうかがえるが、手塚が読書に熱中し始めたころ、「円タク」にちなんだ、定価1円の「円本」ブームによって、国内外のあらゆる名作が安価に入手できるようになった時代。

 1926年の『現代日本文学全集』をきっかけに、刊行シリーズ数200とも300ともいわれる円本ブームが巻き起こり、手塚家にも新潮社の『世界文学全集』やアルス出版の『日本児童文庫』が揃えられ、通っていた小学校にも『小学生全集』があるといった環境の中で、手塚は幼少期から古今東西の名作に触れらたのである。

●主な「円本」シリーズ(筆者調べ)

『現代日本文学全集』(改造社)、『経済学全集』(改造社)、『マルクス・エンゲルス全集』(改造社)、『世界文学全集』(新潮社)、『明治大正文学全集』(春陽堂)、『日本戯曲全集』(春陽堂)、『近代劇全集』(第一書房)、『大思想エンサイクロペーヂァ』(春秋社)、『小学生全集』(興文社)、『日本児童文庫』(アルス出版)、『日本地理風俗体系』(成文堂新光社)、『ゲーテ全集』(大村書店)、『千夜一夜物語』(中央公論社)、『赤彦全集』(岩波書店)、『漱石全集』(岩波書店)、『現代政治学全集』(日本評論社)、『怪奇探偵ルパン全集』(平凡社)、『映画スター全集』(平凡社)、『少年冒険小説全集』(平凡社)、『伊藤痴遊全集』(平凡社)。

 手塚は映画もよく見ていた。戦前の映画は、現在のテレビと映画をあわせたようなスーパーメディア。手塚は『狸御殿』やエノケンの『西遊記』『猿飛佐助』『虎の尾を踏む男達』『法界坊』など日本の娯楽映画に親しむと同時に、その家庭環境から洋画にも触れていた。

 手塚は1985年に『キネマ旬報』の要望に応じて、「日本映画史上ベストテン」と「外国映画史上ベストテン」を挙げている。日本映画が全て戦後の映画であるのに対し、洋画は少年時代に見たと思われる作品が3作品ある。手塚の少年時代は「邦画より洋画を見る層の知的レベルが上」というのが一般的で、この趣向を見ても分かるように手塚家は“インテリを中心とする洋画族”であったことがうかがえる。

 しかし、治虫少年が見ていたのは名作ばかりではないだろう。「結局、子どもが興味を持つのは、〈アクションと特撮とアニメ〉である」(『一少年の観た〈聖戦〉』より)というように、やはり胸ときめくのはそういった類の娯楽作品であったのではないか。

 運動が苦手だった手塚はアクション映画には興味は向かわなかったようだが、特撮を駆使したSFや冒険映画、アニメには大いにひかれるものがあった。当然、次表にある映画の何本かは夢中で観ていたはずである。オタクの原点にはSFがあるが、戦前からその種の映画を見ていた手塚はある意味オタクの元祖とも言えるではないかと思う。

●手塚の少年時代に日本で公開された主なSF・特撮映画と公開年(筆者調べ)

『ロスト・ワールド』(1925年)、『怪獣征服』(1928年)、『メトロポリス』(1929年)、『1940年』(1930年)、『月世界の女』『五十年後の世界』『奇蹟人間』(1931年)、『フランケンシュタイン』『吸血鬼』『ジキル博士とハイド氏』『魔人ドラキュラ』(1932年)、『獣人島』『キング・コング』(1933年)、『コングの復讐』『透明人間』『トンネル』『殺人鬼と光線』『空の殺人光線』(1934年)、『F・P一号応答なし』(1935年)、『五百年後の世界』『幽霊西へ行く』『透明光線』『来るべき世界』『巨人ゴーレム』『超人対火星人』(1936年)、『海底下の科学戦』『失はれた地平線』(1937年)、『東京要塞』(1938年)、『火星地球を攻撃する』(1939年)、『フランケンシュタインの復活』『エノケンの孫悟空』(1940年)、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)

 もちろん手塚はアニメも大好きだった。テレビでアニメが毎日放映されていたわけではない昭和初期の子どもにとって、アニメを見る喜びは今より数段強かったはずだ。親に連れられて行く映画館でアニメが上映されるほんの数分間を楽しみに、子どもたちは生活を送っていた。

 そんな子どもたちの間で圧倒的な人気を誇っていたのは『ミッキーマウス』『ポパイ』『ベティ・ブープ』といった米国製アニメ。日本製アニメもあったものの、「日本の動画の歴史は、一般映画と比べてほとんど、お話にならないくらいみじめなものであった。そして作品にしても幼稚で、観て赤面するようなものが多かった」(『私の人生劇場』より)という。

 しかし、日本製アニメも普及するようになる。日本が太平洋戦争に突入したころ、日本のアニメの父と呼ばれる政岡憲三と並ぶクリエーターだった瀬尾光世は、海軍省から漫画映画製作の発注を受け、所属する芸術映画社で日本初の長編アニメ『桃太郎の海鷲』を監督し大ヒットさせた。その後、瀬尾が松竹に入社して手がけたのが海軍省委託作品の大作『桃太郎・海の神兵』だ。実は、瀬尾は日本軍がシンガポールから持ち帰ったディズニーの『ファンタジア』『白雪姫』を参考に、ハイクオリティの作品作りを成功させたのである。

 医学生であった手塚は1945年、『桃太郎・海の神兵』と運命的な出会いを果たしアニメ作りを決心する。ちなみに、手塚は幼いころから自宅で父親が購入した映写機で米国の短編喜劇やチャップリンの作品、ミッキーマウスの漫画映画を繰り返し見ていた。その当時、映写機を個人で持っていることは極めてまれで、その意味でも破格の環境にあったのは確かだろう。

●物語文化の水準の高さの秘密は識字率の高さ

 ここまで見てきたように手塚は漫画、紙芝居、小説、映画といったメディアからさまざまなものを吸収して育ってきた。そして、父の蔵書に落語全集などがあったことから、日本の伝統・大衆芸能にも日常的に触れていたことも想像に難くない。

 日本ではすでに平安時代に『源氏物語』という世界文学史上の金字塔となる作品が存在し、世界最先端の文化レベルを誇っていた。トロイの遺跡を発見したシュリーマンは、世界周遊の折に幕末の日本を訪れ、「日本の教育はヨーロッパの文明国家以上に行き渡っている」と述べているように、その根底には識字率の高さがあった。ラジオやテレビのない時代、江戸時代に男女ともに80〜90%に達していたという識字率が、「浄瑠璃」「歌舞伎」「講談」「落語」「浪曲」といった実演メディアや、「浮世草子」「草双紙」「洒落本」「滑稽本」「人情本」「読本」「咄本」といった物語文化を支えたのである。落語家から落語のプロになることも勧められた手塚だが、このような日本の物語文化が意識の深層に染み込んでいたものと思われる。

 芸能ということでは、宝塚のスターと一緒に写真に収まってもいる手塚の幼年時代を見るまでもなく、手塚と演劇の関係性における原点は多くの人間が指摘しているように宝塚歌劇にある。さまざまなところで語られていることでもあるが、手塚が大学で学生演劇をやっていたことを考えると、もし絵が描けなかったなら、この方面に進んだ可能性も高かったように思える。

●手塚が育った地域環境

 手塚が育った文化環境を紹介してきたが、ここからは生まれ育った地域環境がどのような影響を与えたか見ていきたい。

 手塚は1928年に大阪府豊能群豊中町(現在の豊中市)で生まれ、5歳の時に宝塚に引っ越すことになるが、幼年期から青年期にかけて大阪とのつながりは深い。

 江戸時代に“天下の台所”と呼ばれ、商業・金融の中心だった大阪は幕末・明治維新期に一時期衰退したものの繊維業を中心とする近代的製造業の展開によって目覚ましい回復を遂げた。“東洋のマンチェスター”と呼ばれ、19世紀末から20世紀初頭にかけて日本の工業センターとして君臨し、戦時体制に突入する1930年代半ばまで全国1位の工業生産を誇っていた。

 そんな大阪が合併によって面積が一挙に3倍、さらに市域の第二次拡張によって人口211万人となり、関東大震災のダメージが抜けきらない東京を抜いて日本第一の都市(世界第6位。東京は200万人で世界第7位)となったのは手塚が生まれる直前の1925年のこと。大阪が“大大阪(だいおおさか)”と呼ばれるようになった時代に手塚は生まれ育ったのである。

 急速な人口の過密化や工場の排煙などで環境の悪化が深刻な問題とされた1923年、大阪市会が満場一致で市長第一候補者に推薦したのが、東京高等商業学校教授から大阪市高級助役に招かれ、“大大阪の恩人”と市民から敬愛されていた関一だ。

 第7代大阪市長となった関は、1921年から始まった第一次都市計画事業の指揮を執ったが、その目玉は1926年開始の梅田から難波まで一直線に結ぶ43.2メートル、長さ4470メートルに渡る御堂筋の建設であった。完成まで11年もかけた御堂筋は地下鉄とともに大都市大阪の象徴となり、沿道には阪急ビルディング、大阪ガスビルディング、そごう百貨店、大丸百貨店、南海ビルディングなど当時の最先端をいく高層ビルが建ち並び、その風景はまさしく“未来都市”であった。

 中でも手塚の記憶に深く刻まれたのは1937年にできた東洋初、世界で25番目のプラネタリウムを併設した大阪電気科学館。この建物は手塚のマンガにもしばしば登場することで知られているが、館内には電気の性質や発電の仕組み、科学的なトリックなどが展示され、そのとりこになった手塚は何度も訪れたという。

●手塚治虫は阪神間モダニズムの申し子

 手塚が画風を含め、ハイカラ指向であったことは多くの人々が指摘するところである、それにはいわゆる“阪神間モダニズム”が大きく影響していると思われる。

 「六甲山系をバックに広がる阪神間は明治以降、鉄道網の整備に伴って発展した。阪急電鉄の前身『箕面有馬電気軌道株式会社』は1907(明治40)年に創立され、三年後には宝塚線の営業を開始。沿線は別荘地や郊外住宅地として開け、大阪の商人らとともに、芸術家や外国人が移り住んだ。西洋文化の浸透とともに美術、文学、音楽、娯楽といった独特の『阪神間モダニズム』が芽生えた。手塚が宝塚で過ごした二十年間は、ちょうどその隆盛期と重なった。しゃれた街並みと伝統に縛られない自由な発想。阪神間の文化に詳しい夙川学院短大教授の河内厚郎が『手塚はモダニズムから育った最初の天才で、まさに申し子』と断言する」(「手塚治虫のメッセージ」/神戸新聞2002年1月6日)

 手塚と同世代で阪神間モダニズムの人間といえば、関西学院で学んだ高島忠夫や藤岡琢也などの俳優が有名だ。高島はこの年代の男性としては珍しくミュージカルのセンスを持ち、藤岡は日本有数のジャズコレクターという典型的モダンボーイである。また、その上の世代としてはケンブリッジ大学に留学し、敗戦後は吉田茂の懇請でGHQとの重要な交渉役を担った白州次郎や、日本を代表する映画評論家の淀川長治などがいるが、この文化的ルーツは西欧文化の西玄関であった神戸から発せられるハイカラ性にあった。

 手塚治虫が5歳から住み始めた宝塚はもともと温泉地として名を知られていたが、阪急電鉄創立者の小林一三の肝入りで大正時代から急激に発展する。

 手塚が豊中から引っ越した1930年当時、宝塚はまだ川辺郡小浜村という小村に過ぎなかったが、温泉や宝塚少女歌劇がある、にぎやかな郊外リゾート地で、同時に中産階層が住む新興住宅地でもあった。大阪などから移り住んだホワイトカラーが多く、小さいながらも郊外のユートピアで中産階級者の楽園となり、同時にリゾート地の側面も持っていたため、その規模に比べて驚くほど多彩な娯楽、文化施設があったのである。大正末期には、温泉に付随する旅館やホテルを始め、ルナパーク(レジャーランド)、動物園、熱帯植物園、子供遊園地、科学遊園地、昆虫館、映画館、ゴルフ場といった施設に年間100万人以上が訪れるほどだった。

 当時の宝塚を代表する文化建造物は、宝塚歌劇団のホームグラウンドの宝塚劇場だ。1924年竣工、4000人収容のこの劇場は東洋一の規模を誇っていたが、惜しくも1935年に焼失。だが、徒歩数分で行ける距離にあったこの劇場を治虫少年は何度も訪れていた。

 そして、宝塚劇場と並んで宝塚のランドマークだったのが宝塚ホテル。1925年に誕生したこの8階建ての高級リゾートホテルは、宿泊や飲食だけではなく、英国の大学や軍隊などの親睦団体である「Gentlemen's club」に範を取った宝塚倶楽部がある文化施設だった。

 宝塚倶楽部は阪急沿線に居を構える中産階級、ホワイトカラー層や地元の名士を対象とした社交の場で、飲食はもちろん、囲碁将棋やビリヤード、テニス、弓道、ゴルフなどのスポーツでの交流が行われていた。手塚の父が宝塚倶楽部に所属していたかは不明だが、一家がしばしば宝塚ホテルで会食を楽しんだのは確か、手塚の結婚式もここで行われている。

 「郊外のユートピア、中産階級の楽園」だった宝塚。手塚が生まれたころ、宝塚で夜の娯楽として最も人気があったのはダンスだった。手塚誕生の2年後の1930年、宝塚ホテルは中州二丁目に約100坪という広さのダンスフロアを開業。一度に300組600人が踊れる規模とその豪華な内装、最新の設備から“東洋一の舞踏の殿堂”と評され、流行の先端を行く当時のモダンボーイ、モダンガールの間では、「宝塚会館で踊って、宝塚ホテルで泊まる」のがおしゃれとされた。

 豊かな自然と最新の文化が同居している郊外のユートピア。手塚の祖父太郎が隠居のための選んだ宝塚は、孫にとって誠に恵まれた地域環境であったようだ。

●裕福な家庭環境

 手塚が育った家庭環境の基礎を作ったのは祖父の太郎だろう。恵まれた知的環境については陸軍軍医だった曾祖父の良庵から受け継いだと推測されるが、父の後を継がず法律家となった太郎が手塚家に及ぼした影響は大きいと思われる。

 太郎は1862年、江戸で生まれた。『陽だまりの樹』に登場する父の良庵は医者だったが西南戦争に従軍、赤痢にかかり1877年に亡くなる。今と違って医者の家庭でも決して経済的に万全の環境ではなかったようで、16歳の太郎は一時的に困窮したとある。太郎がなぜ医学の道に進まなかったのか知る術はないが、10代から東京外国語学校(のちの東京外国語大学)でフランス語を学んでいた事実を見ると、明治維新以降の欧化主義の影響を受け、それによって立身出世を図ろうとしていたようだ。

 1880年、外国語学校を主席で卒業した18歳の太郎は、司法省法学校第三期正則科に編入学する。ここはフランス法の信奉者である江藤新平の肝入りで司法省内に設置された、司法官養成のための法学校。太郎は修業期間8年の正則科二期生に編入することになるが、4年間で4分の3が脱落するという猛烈なエリート養成校の中には将来の日本を背負って立つ数多の人材が集まっていた。

 太郎と同じ二期生には首相になる原敬、近代的ジャーナリストの嚆矢である陸羯南(くが・かつなん)、大審院長(最高裁判所長官)になった鶴丈一郎、三期生には日銀総裁になる水町袈裟六、明治大学学長になる木下友三郎、四期生には首相になる若槻礼次郎などのメンバーがいたが、ここで太郎は自分の運命を決定づける人間と巡り会う。それはフランスから司法省顧問として招かれていた法律学者ボアソナードである。

 パリ大学助教授のボアソナードはその時55歳、司法省で法学教育を行いながら正院法制局、外務省顧問、元老院、陸軍省などの顧問も勤め、さらに私法の基本法として最も重要な民法典の起草案を委託されるという来日以来最も多忙な時期にあった。

 ボアソナードが日本の学生に対する教えで最も強調したのは、ナポレオン法典の基本である「法の前の平等」「私的所有権の不可侵」「個人の自由」「信仰の自由」といった個人の尊重で、「何人も害すなかれ」という自然法の精神と重要性をことあるごとに法学校の生徒に説いた。この師のもとで法学校も主席で卒業した太郎だが、その先には限りなく不透明な未来が待ち受けていた。

 ボアソナードが日本に招かれたのは、日本の司法制度にフランス法を取り入れようとする機運が高まっていたため。しかし、後押ししていた司法卿の江藤新平が征韓論に破れて下野し、1974年に佐賀の乱を起こし、捕えられて斬首刑となってしまった。

 江藤の次に司法卿になった大隈重信はイギリス法の推進者で東京帝国大学法学部にイギリス法学派を起用したため、司法界は司法省法学校のフランス法学派と東京帝大のイギリス法学派に分かれてしまった。そしてさらに三権分立や議院内閣制を唱える両派に対し、岩倉具視、伊藤博文、井上穀らはプロシア型の立憲君主制を目指して対立、薩長閥の力をバックに大隈とその一派を追放してしまった。これがいわゆる明治十四年の政変だが、これにより伊藤博文が参議兼参事院議長として政権の中枢となったため、司法界全体も一気にドイツ法学派にシフトしてしまった。

 そのあおりを食った司法省法学校は完全に傍流となり二期生を輩出しただけで、1885年に廃校となり東京帝大に吸収された。一期、二期の卒業生58人は司法省で浮いた存在となり、ある者は中央から離れ、地方の判事や検事として任官、またある者は明治法律学校(明治大学)や和仏法律学校(法政大学)を設立するなど、それぞれの道を歩むことになったのである。

 ボアソナードも10年間に渡って心血を注いだ民法、いわゆるボアソナード法典が1980年に公布されたものの4年間に渡る民法典論争の果てに、結局施行されないまま実質的に廃案となり、1995年に失意の内に母国へと去っていったが、その誠意あふれる人柄と法律に対する情熱は万人の認めるところで、外国人として初めて勲一等瑞宝章が贈られたのであった。

 司法界におけるこの変化はもちろん太郎にも大きな影響を与えた。司法省法学校を卒業した太郎はその後、母校、東京法学校、東京帝国大学の講師などを務めた後、千葉始審(地方)裁判所に2カ月ほど勤め、1886年に司法省法学校の先輩である井上操に呼ばれて大阪始審(地裁)へ赴き、6年間に渡る判事生活を送ることになる。

 その在任期間中に法学校時代の同士とフランス法学を伝えるべく関西法律学校(関西大学)の創立にも参加することになる。晩年、太郎が生まれ育った東京ではなく、関西に終の棲家を構えることになったのもこの赴任の影響があると思われる。

 その後、太郎は大津地裁検事正、函館地裁、仙台地裁、大阪地裁と地方任官を務め、名古屋控訴院(高裁)検事長となり、1923年1月に長崎控訴院院長の地位で定年を迎えることになる。政府の方針転換で傍系を歩まざるを得なかったとはいえ、裁判官としての暮らし向きは、司法資格を持つ手塚太郎が高級公務員であったことは間違いなく、控訴院長としての年俸は5800円、現在の感覚だと2500万〜3000万円ほどだったので、かなり恵まれた経済環境にあったものと思われる。この経済力がその後の手塚家の文化的環境を形成していくことにもなる。

●文化的な手塚家

 「治虫少年はマンガ家になる上で恵まれた家庭環境にあった」と指摘する人は多い。世界の名作から落語や漫画などの豊富なライブラリー。地元の劇場だけではなく、大阪まで出かけて封切洋画映画を見られるだけでなく、当時としては貴重だったムービーカメラや映写機も所有していた。こうした文化環境を作り上げたのが父の粲(ゆたか)である。

 粲は太郎が仙台地裁に赴任している1899年に生まれた。太郎は37歳で、生まれたばかりの長男を亡くし、娘ばかり3人続いた後にようやく生まれた男の子である。粲は父の転勤に伴い各地を転々とした後、1918年に中央大学法学部に入学、ボート部の主将を務める一方、カメラや漫画を趣味とするモダンボーイだったという。この多彩な趣味が後年、治虫少年の文化環境に大きな影響を与えることになるのである。

 大学を卒業した1921年、粲は大阪の名門、住友財閥系の住友倉庫に入社する。法曹界へ進まずホワイトカラーの道を選んだ粲だが、実は当時の大卒一流企業サラリーマンは裁判官や弁護士より恵まれた生活を送っていた。財閥系の大企業の部課長クラスになれば大臣クラス以上の年俸になるほどの経済的ステータスがあったのである。

 住友倉庫に入社した粲は、その後、中核企業の住友伸銅鋼管(住友金属、現・新日鐵住金)に異動になる。治虫が生まれたころの住友伸銅鋼管は不況から立ち直ったばかりだったが、すぐにロンドン軍縮があり景気は後退。しかし、1931年の満州事変以降、軍事色が濃くなるにつれて会社の業績も次第に伸びていく。

 粲も忙しい日々を送っていたと思われるが、手塚は「一家の生活水準は高く、家族で近くの宝塚新温泉や歌劇に出向き、遊園地で遊んだ。クリスマスには宝塚ホテルで食事をするハイカラな家庭。当時の宝塚はピアノの普及率が全国一で、手塚は大学生時代、隠し芸でピアノの独奏を披露したこともあった」(前掲の神戸新聞)という余裕ある暮らし振りだった。

 このような余裕のある生活が幼かった治虫に与えた影響は大きく、高価な漫画全集や文学全集、落語全集や講談全集や絵画、音楽などの芸術分野の書籍、さらに『キング』『アサヒグラフ』『新成年』といった一般雑誌から『漫画倶楽部』まであった。さらに、銀座の十字屋が1921年から輸入を始めたパティベビーというフランス製映写機が自宅にあった。手塚はこの手回しの映写機で米国の短編喜劇、ミッキーマウスの漫画映画、チャップリンの映画などを見ていたのだ。

 ここまで家庭環境における文化的、経済的側面を主に見てきたが、手塚の進路については母親を抜きにして語ることはできないだろう。陸軍中将の娘に生まれた母親の文子はストーリーテラーとしての才能や激しい競争心といった性格を手塚に分け与えたが、その最大の功績は何よりも息子が医者の道を断念してマンガ家になることを認めたことにある。

 当時の常識から考えるならば医者の道を歩んでいる学生がマンガ家になることはほとんどありえないこと。その意味で文子は「マンガの神様」「アニメの神様」誕生の最大の功労者かもしれない。

[増田弘道,Business Media 誠]



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この記事の著作権は【Business Media 誠】に帰属します。
http://news.livedoor.com/article/detail/7337447/

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